悪とは「人間的スケールを超えること」

内田樹さんの「修行論」がとても面白かった。理屈とか表層意識とかロジカルシンキングを超えた身体のパラダイムシフトが内観的に起こるのが修行で、何秒で走れるとか何kg持てるとか数値で測れる向上ではない身体的向上が起きると言う、言葉で語るには難しい内容なはずなのに言葉でわかり易く書かれている。

 

その中でびっくりしたフレーズがタイトルにある、『悪とは「人間的スケールを超えること」』。

 

20世紀の、戦争と粛清と強制収容所の歴史的経験から、レヴィナスが学んだことのひとつは、悪とは「人間的スケールを超えること」だということであった。
 あらゆる非人間的な行為は人間の等身大を超えた尺度で「真に人間的な社会」や「真に人間的な価値」を作り出そうと願った人たちによって行われた。自分の生身が届く範囲に「正義」や「公正」の実現を限定しようとせず、自分が行ったこともない場所、出会うこともない人たち、生きて見ることのない時代にまで拡がるような「正義」や「公正」を実現しようとした人たちは、ほとんど例外なく、世界を人間的なものにする事業の過程で、非人間的な手段(抑圧や追放や粛清)を自分に許した。

 

身体論と言うか、頭の大脳新皮質に偏って作る理屈を超えたところに、修行の醍醐味があり、奥深さがあるのだが、逆に言うと、身体に根差した判断や即応力から遊離してしまった、頭だけでの理想論やあるべき論がエスカレートした先には、非人間的な悪が生まれ得る、やっかいなのは当の悪行している本人は良いことをすることから出発しているのに。

あんなに素晴らしそうな共産主義と言うやり方を採用した国々がどこも独裁政治になってしまうのはなんでなんだろう?とずっと不思議に思ってたのだが、ここを読んで一気に氷解し、思わず「そうか!」と声をあげてしまった。

「意識」は身体を置いてけぼりにして暴走しがちと言うこと。それは悪行はもちろんの事、見かけ上善行でも、同じく悪に陥ってしまいがちと言うこと。それに歯止めをかけるために身体のセンスを研ぎ澄まし、暴走のリミッターとしていつも機能してくれる様にメンテする必要がある。